- 越後岩船千二百年祭 - もう、おとぎ話でいいかも
おとぎ話の裏側とか、自慢話もたっぷりと。
長くなりそうなのでシリーズで。
続けられるのか、自信はないけど。
おとぎ話の前段は夕陽コンサート。
40年も前。
地域起こしで当時の若者たちが手弁当で始めた。
みなとフェスティバルから夏フェスティバルと形を変えて
脈々と続いている。
コアには始まりからずーっと伴田さんと津島さん。
頭が下がる。
平成12年に岩船港が地域振興特定重要港湾に指定された。
岩船商工業会、当時は村恭さんの先代が会長だったが
何か港でイベントをと考えていた。
当時、よさこいがブームで、女性たちのチームがたくさんできていた。
彼女たちは一堂に踊れる場を求めていた。
夕陽コンサートスタッフは特に財政面で運営に難儀していた。
よさこいには動員力が
夕陽コンサートにはPAなどイベントノウハウが
商工業会には資金力と運営のためのスタッフが
それぞれの長所と思惑をラフにミックスさせて
みなとフェスティバルがはじまった。
それがあったから地域振興特定重要港湾の整備事業で
ステージができた。
緑地公園、ステージの完成こけら落としのイベントとして
最終的に千二百年祭となる事業の企画がスタートした。
平成17年の春ぐらいだったと思う。
その数年前、よさこいの中心メンバーだった女性から
「踊れる場を」と相談を持ち掛けられて
悪いことではないなと思いながら、骨を折る義理は無かったので
「私ら、商工業会の事業になればお手伝いします」と
やんわり拒絶したら
「岩船の男しょは仲良しこよしでねーば、なってもせねんがね」と
強烈な一言が返ってきた。
みなとフェスティバルが形になったとき
「仲良しこよしの、これが答えだ」と一人で溜飲を下げた。
だから、ステージを作ったのは、
閉店してしまった豆腐屋のお母さんの一言だったと
私的には思っている。
By 転がる石
次の当番は12月。
このペースだと、飽きらかさずに続けるとしたら
完結する前にドットコムのホームページが閉鎖するかも。
その気があれば、当番を無視して随時アップしようと思います。