古事記
「こじき」、元々は「ふることふみ」だった・・のではないかと。
日本で最も古い文書で、作られた当時の読み方を誰もわからない。
およそ1300年前、西暦712年に成立した。
一般に高校までの日本史で触れる情報はそれだけ。
ほとんどの人が中身は知らない。
日本の建国神話と推古(第33代)までの天皇の事績。
だからフィクションと事実が綯い交ぜ。
古からの伝承が失われていくことを憂慮した天武(第40代)天皇が
稗田阿礼(ひえだのあれ)に「お前、全部記憶しとけ」と命じたらしい。
時有舎人。姓稗田、名阿禮、年是廿八。爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。即、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。(『古事記』序)
(現代語訳)そのとき、一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。聡明な人で、目にしたものは即座に言葉にすることができ、耳にしたものは心に留めて忘れることはなかった。すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよ」と命じた。
謎が多い。
稗田阿礼は古事記の序文にしか名前が出てこない。
舎人(とねり)、朝廷の役人なのに一族も生没年もわからない。
この時代に28歳と年齢だけが明示されているのも異例。
古事記は元明天皇(第43代)が711年に編纂を命じて、
太安万侶(おおのやすまろ)が阿礼の語りをまとめたとされている。
天武天皇の在位は673年~686年。
阿礼が誦習を命じられてから少なくても25年以上経っての上梓。
編纂は国家事業に違いないから朝廷にとって益になる内容にまとめたはず。
天武の後の持統天皇(第41代:天武の妃)と
彼女を補佐した藤原不比等(ふじわらのふひと)の意向が大きいと考えられる。
稗田阿礼が実在したとすれば、実は不比等のブレーンだったのではないか。
謎の20数年は不比等と阿礼が残すべき伝承を吟味していた時間なのかも。
梅原猛先生にいたっては稗田阿礼=藤原不比等という大胆な説を唱えている。
神話のハイライトは天孫降臨(てんそんこうりん)
高天原(たかまがはら)つまり天上界の最高神である天照(アマテラス)大神が
孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に地上の統治を命じて、ニニギは高千穂に降臨する。
そのときにアマテラスがニニギに授けた言葉が
天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)
豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の國は、
是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)也。
宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。
行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、
当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし。
「声に出して読みたい日本語」ですな。
就きて治せ
「治(しら)せ」は「治(しら)す」の命令形。
「治す」とはよく知ること。だから「よく知りなさい」とアマテラスは命じた。

このニニギノミコトの曾孫が初代神武天皇。
だから天皇の役目は、国と民をよく知ることだと建国神話に定められた。
権威と権力の巧妙な分離。
孫の軽皇子(かるのみこ=第42代文武天皇)に皇位を継がせたい持統の執念。
その後、権力者として栄華を極めた藤原氏の祖である不比等の深謀。
それが天孫降臨神話に投影されている・・のではないか。
だけどこれが統治の形として理想的なものになった。
最高権威としての天皇と、天皇に信任された政権担当者。
今もなお国会で首班指名を受けた者が皇居での信任式を経て
正式に内閣総理大臣となる。
国民は天皇にとって「大御宝」(おおみたから)、宝物とされる。
他の多くの国のように支配者と被支配者の関係ではなかった。
政権担当者は国民を統治するが、国民は自分に立場を与えた天皇の宝物なので
国民が幸福になるための政治をしなければならないのだ。
これを「シラス統治」と呼ぶ。
今、世界で最も幸せな国である日本。
それは、うののさららひめみこ(持統天皇)と藤原不比等のおかげだと
私は考えているのです。
by転がる石

