鷹山公

うちの店には、山形県置賜地方(小国~米沢方面)のお客様が多く見えられる。

父がこの商売を始めた50年前から、うちを支えてくださったお客様だ。

 

同じ山形県でも庄内地方とは気質が違うように感じる。

全体におっとりとして人柄がいい。

日本一だと、私は思っている。

 

職業訓練校講師のくだりで掲載した「瀬波郡絵図」は、米沢市の上杉博物館に所蔵されている。

描かれたのは16世紀(戦国時代)と推定されている。

当時の岩船は平林城を本拠とした地方領主 色部氏の領地であった。

絵図は色部氏が描かせたものだろう。

 

全国統一を成し遂げた秀吉の命令で、越後上杉家は会津120万石に転封となる。

後に関が原で石田三成に味方したため、米沢30万石に減封となる。

 

色部氏も会津~米沢と上杉家につき従ったので、この絵図が米沢に残されている。

 

米沢藩ではその後も不祥事があり、さらに15万石に減らされている。

しかしながら謙信以来の名家の誇り高く、体面を重んじたため深刻な財政難に陥った。

 

そんな中わずか10歳で上杉家に養子として入り、若くして藩主となった上杉鷹山は

徹底的な倹約と殖産興業によって破綻した藩財政を立て直した。

 

ある日、農民が干した稲束を取り入れるとき、にわか雨が降り出しそうになった。

たまたま通りかかった二人の武士が取入れを手伝ってくれた。

 

農民の老婆が後日、お礼の餅を作って教えられた役所に行ってみると、

手伝ってくれたのは藩主の鷹山公その人で、老婆は腰を抜かすほど驚いた。

 

その上に仕事に励んでいることを褒められ、褒美に銀5枚をいただいた。

子孫まで殿様の御恩を忘れないように、老婆は子や孫に足袋を作って贈った。

 

老婆が嫁いだ娘に宛てた手紙と足袋が、米沢に残されている。

 

(前略)

ソレデ フクデモチ三十三マルメテ モツテユキ候トコロ

オサムライドコロカ オトノサマデアッタノデ コシガヌケルバカリデ

タマゲハテ申シ候

ソシテゴホウビニ ギン五マイヲイタタキ候

ソレデ カナイヂウトマゴコ ノコラズニ タビくレヤリ候

(後略)

 

米沢の人にとって上杉は、謙信でも景勝でもなく鷹山だ。

今も「鷹山公」と敬意を込めて呼ぶ。

 

置賜の人柄の良さは、鷹山公のレガシーに違いない。

 

 

日本で上杉鷹山がまだ広く知られていなかった1961年、

43歳でアメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディーは記者会見で、

「尊敬する政治家は、日本の上杉鷹山だ。」と語った。

 

嬉しいじゃないか。

 

By 転がる石